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母校のルーツを知る =創立100周年に向けて=

母校トキワ松学園は、2016年に創立100周年を迎えます。
創立者が「真白き富士の根」の作者として有名な三角錫子先生であることは、 皆さん周知のことと思います。
三角錫子先生は、大正5年(1916年)に渋谷の地に女子音楽園の一部を借りて、常磐松女学校を創設しました。三角先生が44歳の時です。49歳という若さで亡くなるまでの僅か5年間ですが、常磐松女学校に残された教えには多くのものがあり、常磐松高等女学校、トキワ松学園へと、今もって受け継がれています。先生の卓越した教育感は、明治時代後半から大正初期に発行された婦人雑誌や婦人向けの新聞に20点近く掲載された論説から読み取ることができます。
太平洋戦争で、すべてを焼失してしまったトキワ松学園には、先生の教育観、女性観、思想などを知る手だては、三角先生が残した雑誌や新聞に発表した記事しかありません。手に入れたこれらの資料の分析を試みながら、100周年に向けて、三角先生が残したものをすこしずつ紐解き、皆さまに紹介しながら、三角錫子像、そしてトキワ松学園に託された精神を読み取っていきたいと思います。


三角錫子先生の生い立ち(1)

三角錫子先生(本名寿々)は、1872(明治5)年4月7日に、石川県金沢市で旧藩士の三角風三、房子の長女として誕生しました。この年の9月に日本で最初の近代学校制度が規定され、「学制」が頒布したことを考えると、三角先生の一生を明示しているような、何か因縁のようでもあります。
三角家は、三角術(今の数学)の研究で藩主から三角(みすみ)の姓とコンパスの家紋を拝領したという家柄でしたが、父の代に手がけた事業に失敗したようです。家を売り払い5年間過ごした金沢をあとにし、名古屋に転居して下等小学校8級に入学しましたが、半年後には7級に進級しています。眼病の為に一年間休学を余儀なくされた以外は、穏やかに小学校時代を名古屋で過ごしました。
1885(明治18)年父風三が静岡県庁に勤務のため、静岡に引っ越すことになり、静岡の小学校を卒業後、創設したばかりの静岡師範学校女子部に入学しますが、管理主義的な校風に合わず、8月には退学してしまいます。この時の舎監が松山溢(いつ)先生で、大変かわいがられたようです。この松山溢先生との関係が、後の常磐松女学校創設に繋がっていきます。
早くより男子に混じって漢籍や英語の学習を怠らず、向学心に燃えて1888(明治21)年に上京し、高等師範女子部(現お茶の水女子大学)の補欠募集に応募し、17歳の最年少者として合格するのです。聡明で意志の強い性格はこの頃に既に芽生えていたようです。

(MIDORIKAI NEWS 5号に加筆) 



生い立ち(2) 北海道へ

 三角錫子先生は、卒業した高等師範女子部の教授の薦めもあって、明治26年4月に北海道の札幌女子小学校に赴任しました。21歳という若さであったため、静岡に父風三を一人残して、祖母、母、と4人の弟を連れて札幌に赴きました。
札幌女子小学校は、明治22年に創設された北海道一のエリート校で、女子教育の中心校でした。三角先生は当時珍しい高等師範を卒業したということで、給料は校長先生と同額の25円という高額でした。そこでの先生は、単に生徒を教育するだけではなく、地方教師の模範となり指導役でもありましたので、辺境の地の札幌ではありましたが、札幌女子小学校に女子教育に熱心に取り組んでいる教員がいると評判になったほど、精力的に校務に励み女子教育の成果をあげていきました。また、弟たちの面倒もよく見る充実した生活を送ってもいましたが、唯一心配なことは、長男の茂樹が両親の反対を押し切って、同棲生活を始め家を出てしまったことでした。
26歳になった先生に、札幌の資産家で私立学校を経営していた富所広吉氏との結婚話しが持ち上がりましたが、その年に父が退職し、北海道に向かう船中で脳溢血のために急逝してしまったのです。何年ぶりかで家族全員が揃うと喜んでいた矢先のことで、まさに青天の霹靂でした。これからの生き方を一番相談したかった父を亡くし、一家6人を背負っていかなければならなくなってしまったのです。
結婚の事を考えられる状況にありませんでしたが、相手のたっての希望もあり、弟たちの将来のために大学に行かせたいと願っている事を伝え、引き続き教師として働くことと、給料を弟たちの進学のために使わせてほしいということを条件に、1897年〈明治34年〉2月に結婚しました。しかし、当時は主婦が働くことに理解のある社会状況ではなく、最初は理解を示していた夫も次第に「主婦業に専念すべき」と主張するようになり、辛い毎日を送るようになりました。三角先生が「涙と汗の記」に“暗黒の時代”と表現した5年間が始まったのです。



生い立ち(3) 〜暗黒と涙の時代〜

 1897(明治30)年の8月、結婚してわずか半年で、三角先生は別居して愛三、鎌三、康正の三人の弟を連れて東京に出ます。弟たちに上級学校の教育を受けさせたいとの思いが強かったからです。暮らしていかなければなりませんので、9月から東京女学館に 数学の教師として勤務します。東京女学館の『創立百周年記念誌』の教職欄には、富所錫子の氏名が記録されています。
 1898年4月には東京女学館を辞職して、女子師範時代の恩師のたっての要請で5月から女子高等師範付属の小学校の訓導となっています。訓導とは今でいう正規の教員の名称です。思ってもみなかった就職先でしたが、夫に約束の1年を過ぎているのだからと、札幌に呼び戻され、わずか3か月で辞めることとなり8月に札幌に帰ります。
 1899年7月、愛三、鎌三の第一高等学校受験のために再び上京。二人とも無事合格を果たします。再び北海道に戻り、北海道師範学校の訓導、小学校乙種検定委員を兼任、1900年には北海道師範学校の助教諭を兼任と精力的に教育界に貢献します。翌年の3月、弟の面倒を見るために、北海道師範学校を退職して上京し、4月から私立横浜女学校(現 横浜学園)に就職します。様々な出来事に疲れ切っていた先生は、できるだけ学校に近い場所に住まいを持とうと、横浜に一人住まいをします。弟愛三は、三菱の岩崎弥之助家の家庭教師を5年間務め、家族同様の生活を共にしたのです。かなり困窮した生活を送っていた先生にとっては、この上もない救いの道でした。
その頃、夫は札幌区議会議員となり、私立中学校の創設に奔走していましたので、三角先生には家庭の切り盛りを希望していましたが、先生自身は教育という仕事を続ける意思を示していました。この二人の相反する思いの結果が、4年間の短い結婚生活に終止符をうつことになってしまい、1901年7月に協議離婚しました。今でこそ“バツイチ”などといい離婚を隠す時代ではなくなっていますが、明治30年代には、特に教職の立場にある者が離婚することなどとんでもないことであったわけです。また、先生自身も思い出すのも辛い夫の暴力なども経験していましたので、自叙伝と言われている 『涙と汗の記』をはじめ、その後の著作にも結婚生活については一言も触れられていません。
 その約1か月後に母が51歳の若さで亡くなり、4人の弟と年老いた祖母の世話を先生一人で引き受けることになってしまいました。この1901年は三角先生にとって、追い打ちをかけられるような辛い夏だったと思います。24歳から29歳までの5年間に“父母の死” “結婚と離婚” “4人の弟と祖母の生活” の3つが重なり、札幌と東京の間を頻繁に行き来し、次々に学校を変更しながら教職を続けたことなどを考えると、“暗黒の時代” “涙の時代” と表現したことはうなずけます。この暗黒の時代に、札幌のプロテスタントの教会に通っています。自分を見つめる安らぎの時間を教会の静かな祈りの中に見出したのではないでしょうか。さらに、オルガンも習い賛美歌を弾けるまでになっていました。三角先生の精神面を支える役割を果たしたのだと思います。
 1903年3月約2年間働いた横浜女学校を退職して、4月から創立間もない私立東京高等女学校(現 東京女子中学高校)で数学、化学、家事を教えます。校長の棚橋絢子先生は、三角先生の才能を認め、将来は二人で家事の教科書を作りましょうと約束していたようです。少しでも出費を少なくするために、安い家賃の家を探し回り、何回となく引っ越しを繰り返しました。弟たちは、学校をあきらめ、働きに出ることを姉である三角先生に相談しましたが、「あなたたちの役割は、大学を卒業すること」といって、とりあわなかったそうです。男女を問わず、学ぶことの重要性を生きる柱に据えていた三角先生の姿がこういった面にもよく表れています。
 暗黒の5年間に加え、生活に追われ「泣くこともできなかった5年間」であり、死にたいと何度も思い、書き置きまで書いた」と『涙と汗の記』に書かれています。心身ともに疲れ果て、結核の症状がでてきました。薬瓶を下げて、3日学校に行き10日休み、給料の3分の2が薬代に消えるといった状態が続いたのです。
 結核の症状がひどくなり、1906年5月に東京高等女学校を休職します。休職するにあたって、棚橋先生は、三角先生に給与の3分の1を1年間支給したそうです。お二人の友情からでしょうか、休職規定がすでにあったからでしょうか。三角先生はどんなに助かったかしれません。6月には、湘南逗子の新宿海岸に転地療養をします。



生い立ち(4) 〜湘南に転地療養〜

 34歳の働き盛りに、転地療養をしなければならなくなった先生の境地は、如何ばかりだったか。無念だったと推察できます。「療養の初期は、社会から隔絶されていることの不安や、弟たちから生活費を与えられている屈辱感、特に、義妹からもらうときは、耐えられないほどの恥ずかしさを覚えた。」と『涙と汗の記』に書かれています。先生らしい葛藤にさいなまれた療養生活でしたが、次第に大好きな草花を育て、果実を実らせ、苺畑まで作り、読書や散歩などを楽しみ、鶴のように美しいニワトリも飼ったりしました。
 先生の動植物に対する考え方は、玄人はだしといっても過言ではなく、ドイツからシクラメンの種子を取り寄せたり、花の栽培用のフレーム(今でいう簡易温室と思われるもの)を三か所も設けたりと本格的でした。手入れと掃除をするのに毎日2時間以上もかかる百余坪の庭園の畑には、ナスやキュウリ、トマト、エンドウ、インゲンなどの野菜まで植えつけ、食べきれなくて親しい方に貰ってもらうほど収穫しています。畑に出て沢山の太陽を浴びるこういった生活が、身体に悪いはずがありません。先生の身体に大きな変化をもたらし、当時不治の病と言われていた結核も快方にむかったのです。
 1908(明治41)年4月から私立鎌倉女学校(現 鎌倉女学院)で数学と国語の教師として教鞭をとり始めました。鎌倉女学校の田辺校長先生は、東京と逗子の開成中学校の校長先生でもありました。実は、三角先生の弟の鎌三と康正は東京開成中学校で学んでいましたので、田辺校長先生とは、弟の保護者として面識があったのです。三角先生の方から鎌倉女学校のお手伝いをさせてほしいと頼んだようです。
 そして、この年に88歳の祖母を見送っています。三角先生が病弱だっただけに、おばあさんより先に行くことのないようにと常に願っていたのです。生活上においても病気にならないように心掛けていましたし、真剣に祈ってもいましたので、おばあさんが病気ひとつせず、眠るように静かに息を引き取った時には、安堵感を覚えたと述懐しています。



生い立ち(5) 〜『真白き富士の根』の作詞〜

 1910年1月23日逗子開成中学のボート遭難事故に遭遇します。三角先生にとって自宅そばの逗子開成中学の生徒たちは日ごろから目にしていたでしょうし、弟たちが学んだ兄弟校である逗子開成中学の校長先生は存じ上げていました。勤務している鎌倉女学校は兄妹校でもあるのです。これらの事を考えれば、心情的にも知らない学校の生徒さんが起こした事故ではなかったのです。また、日ごろから三角先生のところへ進学などの相談に来ていた生徒の一人が、この事故のメンバーであったといった記述もあります。この事故に大変心を痛め、何か役に立ちたいという思いに至ったのでしょう。1番から6番までの歌詞を一晩で書き上げたのが『真白き富士の根』でした。
 2月6日に行われた大法要の折に、鎌倉女学校の生徒が三角先生の弾くオルガンに合わせて歌い、参列者5000人の涙をさそったと言われています。この歌は、その後流行歌となり全国津々浦々で歌われ、映画にもなりました。ただ単に中学生のボートの遭難事故を扱った歌ではなく、どんな時にも子を思う母の心情が上手に表現されていて、時代を超え現在も歌い継がれているのだと思います。この歌がきっかけとなり、その後『若草』『春は来たれり』『葉山』『落ち葉』『汐干狩』の5曲の歌詞を発表しています。
 『真白き富士の根』については、後日談があります。ひとつは作曲者について、もう一つはタイトルについてです。作曲者は1990年頃まで、ガーデンと言われていました。1990年以前の楽譜はすべてガーデンとなっています。フェリス女子大学の手代木先生によって研究され、賛美歌の623番であることが判明し、作曲者はアメリカの作曲家インガルスだったのです。この曲が雑誌「音楽界」に発表された時、作曲も三角先生となっていたために、「私は作曲していません。私が口ずさんでいたメロディに歌詞をつけたにすぎない。楽譜がほしいという希望者にもこたえるためにも、恩師に譜面に起こしてもらいました。」という一文を「音楽界」に掲載しています。先生が好んで口ずさんでいた曲は、賛美歌だったのです。札幌時代に教会に通っていた時によく歌い、先生の好きな賛美歌の一つであったのではないかと推察できます。法要の際に、自らオルガンを弾いたという記述に接して、札幌時代に教会に通いながら、オルガンを習ったことがあったことが思い出されます。
 次にタイトルですが、三角先生は最初「哀悼の歌(逗子開成中学ボート遭難に居合わせて)」として発表しました。いつの頃か歌い出しの真白き富士の根がタイトルとして定着していったようです。『真白き富士の根』の“根”ですが、“嶺”と使われることがありましたが、先生自身は“根”を使っています。富士山の裾野の根っこで起きた事故と捉えていたようです。イメージを大切にする映画などでは、霊峰富士をイメージする言葉として“嶺”を使用したのではないでしょうか。



生い立ち(6) 〜動作経済の研究〜

 三角先生は、1911年3月に2年間勤めた鎌倉女学校を辞職しました。辞職の理由は、長い間義絶状態であった長弟の茂喜さんにあったようです。4月に札幌まで出かけて見舞っています。5月に茂喜さんは亡くなり、奥さんも病床に伏せっていましたので、その長女満恵11歳と次女蝦与(かよ)8歳を引き取り、養女として育てることになりました。
 このころ、アメリカ人のフレデリック・テーラーが提唱したテーラーシステムという考え方が日本にももたらされました。工場などで、労働者の能率を上げるために、いっさいの無駄を排除して、作業の順序や性質、時間の使い方や動作を科学的に研究して、その管理・運営を能率的に行う方法のことを言っています。三角先生は大変興味を示され、弟や友人を通して本を購入し熟読して、この考え方を家庭生活に応用できないかを研究し始めました。
 最初に考えたのは、台所での仕事についてです。日ごろから、台所は無駄な動きが多く大変非能率的であると感じていたのです。例えば、菜っ葉を煮るにしても、外で菜っ葉を洗い、家に入ってまな板にのせて切って、離れたかまどに持って行って煮るといったように、左から右へと動線上に動けないので非常に能率が悪いと考えていたのです。現代のシステムキッチンの考え方をこの時すでに考えていたと言えます。
 三角先生は数学の先生らしくこんな計算をして、婦人がいかに無駄な動きをしているかを紹介しています。「たとえば、二間四方の四角い台所を、四角に歩いて回りますと、八間歩かなければならないが、丸く歩くと六間と一尺七寸ですみ、三角に歩くと六間ですむというように差がある。そうしますと流し、戸棚、かまど、出入り口などは三角の位置にあるのが一番動作の経済になるということになります。一度動くのに二間の経済が生じますから、朝昼晩の三度にこの台所を三十度(最小の見積もり)動くとしますと、一日に六十間すなわち一町、一年に三百六十五町すなわち十里と五町の無駄な労力があります。それに伴う時間、草履、着物の裾と考えたらば、大きな損失になります。」と草履や着物の裾のすり減り方にまで及んで説いています。こういった家庭内の動作の経済はいたるところにあるので、主婦は頭脳を使って研究して、一分でも多く時間を作り出しなさいと言っています。
 次のこの言葉には、皆さん誰しも頭をガーンとたたかれることと思います。「忘却は動作経済の敵です。忘れることによって探し物をする、これは一所懸命工夫して作り出した時間を棒に振って、しみじみ腹が立つものです。私は今一番これを注意しています。」
 三角先生は、動作経済の考え方を単に家庭労働の軽減と考えていたのではありません。動作経済を上手に取り入れることによってできた時間を、婦人は本や新聞を読んで少しでも知識を増やすこと、それが婦人の地位向上に繋がっていくと説いています。先生の考え方の行き着くところは、常に婦人の地位向上にあったのです。



生い立ち(7) 〜再び東京へ、早苗女塾の舎監に〜

 三角先生は、湘南での10年に及ぶ転地療養のおかげで肺結核の症状も落ち着き、ボート遭難事故の4年後、1914年3月に東京に住居を移し、静岡師範学校在学中に舎監としてお世話になった松山いつ先生をお訪ねしています。当時松山先生は、実践女学園の校地を借りて女子音楽園の園主として、音楽の専門学校の経営をされていたのです。女子音楽園は音楽界において著名で優秀な教師陣を集め、芸大の予備校的存在として世間に認められていた有名な学校でした。松山先生は、かなりお年を召していましたが校長先生として、かくしゃくとして女子音楽園にかける情熱を持っていらっしゃいました。しかし、多忙なこともあり、寄宿舎の運営は思うようにできず、悩みの種でもありました。音楽の素養や知識を身に付けるだけではなく、女性としての品性や感性、しつけなどもできる寄宿舎にしたいといった希望を持っていらっしゃいましたので、三角先生はその心に動かされ、舎監となってお手伝いをすることとなったのです。
 静岡師範学校の寄宿舎舎監の松山いつ先生と、そこでの生活に耐えられずに中途退学までした三角先生との師弟関係の不思議さ、奥深さを思わずにいられませんが、寄宿舎のあり方について三角先生なりの考えがあったに違いないのです。校則や規則で縛るあの経験だけは生徒にさせたくないと思って、引き受けたのではないでしょうか。
 『早苗女塾(さなえおんなじゅく)』と命名した寄宿舎のモットーは“最小の時間で最大の効果を収め、最小の努力で最大の作業をする”という、いかにも動作経済を研究して日常生活にも生かしたいと考えていた三角先生らしいものでした。具体的方法として、一方的に教えるのではなく、問題を与えて一週間後までに寄宿生に考えさせ研究させ、その研究を発表させて寄宿生全員の同意を得て実行に移すという、まさに今の教育方法の一つであるディベートやプレゼンテーションを見事に取り入れていたのです。
 三角先生が早苗女塾のこの経験を、寄宿舎教育ではなく正式な学校教育に生かしたい、特に女子教育で実践してみたいと考えたのは、当然ではないでしょうか。



生い立ち(8) 〜常磐松女学校の創設〜

 女子音楽園の校長であった松山いつ先生と実践女学校の校長であった下田歌子先生とは、仲の良い友人関係にあったようです。下田先生は松山先生に、「実践女学校の隣接地が空いているので何か教育事業を始めると良い」と働きかけたそうです。その働きかけに応じて松山先生は女子音楽園を創立しました。女子音楽園は、東京で唯一の女子専門音楽学校で顧問に棚橋絢子、下田歌子、小林愛雄などを迎え、教授陣に芸大の教授や宮内省の雅楽部の楽人を揃え、更に寄宿舎を設けて知識やしつけ徳育などに力をいれ、芸大への進学率が都内でもトップクラスであったと伝えられています。
 女子音楽園創立から十数年後に三角先生は、女子音楽園の一部を借りて、常磐松女学校を創立したのです。実践女学校との間に土地の貸借関係が結ばれたということは、下田先生、松山先生、三角先生の三者の契約が結ばれたことになります。約100年前にこのような、女性同士で自立を促す関係が成立していたことに驚きます。この血縁以上の女性同士の地縁は素晴らしい関係です。
 さて、1916(大正5)年に常磐松女学校が誕生しました。2年制の本科と1年制の家政科と裁縫科の三科からなる生徒数わずか20名ほどの本当に小さな、小さな学校でした。当時、女学校は4年制が基準でしたので、文部省の認可ではなく、東京府の認可のもとに開校できたのです。
 三角先生の自叙伝とも言われている『涙と汗の記』には、次のように書かれています。「もとより東京府の許可のものであって、文部省から認められたものではないが、長い年限は女学校にはいかれないけれど、4年間は勉強できないが、2年間なら学びたいという女性のために作った。みんなが自由に楽しく学べるところ、子どもが銘々持って生まれた天分を伸ばしてあげたい・・・・」と創立に当たっての教育理念を明確に述べています。多くの女性に少しでも学ぶ機会を作りたいという強い思いが伝わってきます。また、昼間働いているお手伝いさんのために、夜学も開校しましたし、知恵遅れの人のためには特別学級も考えていたのです。三角先生のわけ隔てのない思想にも脱帽です。『涙と汗の記』はさらにこのように続いています。「今の女学校の卒業証書が嫁入り道具の箪笥なら、ここの卒業証書は行李にもならない、小さい風呂敷くらいのものである。でも、小さくともその風呂敷の中にしっかりとした鋼鉄に、一輪のすみれの花をそえて包んで持っていってほしい。」鋼鉄をはがねと読ませて“はがねに一輪のすみれをそえて”がトキワ松学園の建学の精神をあらわす言葉となっていますが、ここから取られた1節なのです。
 三角先生が思い描いた理想の学校は、自由な雰囲気の中にも、しっかりと知識を与えることのできる学校であり、持って生まれた個性を伸ばす学校という評判で、与謝野晶子のお子さんや、鈴木三重吉の従妹さんなども入学したそうです。